東京地方裁判所 平成8年(ワ)8662号 判決
原告 A
右訴訟代理人弁護士 小宮圭香
同 小宮清
同 奥條晴雄
同 桝井信吾
右訴訟復代理人弁護士 小沢剛司
被告 B
右訴訟代理人弁護士 斉藤勝
主文
一 被告は、原告に対し、金三三一万〇二三一円及び内金三二一万〇二三一円に対する平成六年一〇月二日から、内金一〇万円については平成九年七月一九日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを三分し、その一を被告の、その余を原告の負担とする。
四 この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
被告は、原告に対し、金一〇七六万八六〇七円及び内金七〇一万四八〇七円に対する平成六年一〇月二日から、内金三六四万円に対する平成八年五月一九日(訴状送達の日の翌日)から、内金一一万円に対する平成九年七月一九日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
一 本件は、原告が被告に対し、<1>三〇〇万円を支払うとした合意が、強迫によるから取り消したとして、あるいは、錯誤を理由に無効であるとして、既に支払済みの三〇〇万円の不当利得返還請求を、<2>被告による郵便貯金の無断払戻しを原告が追認したのは強迫によるから取り消したとして、払戻金六四万三八〇〇円の不当利得返還請求を、<3>原告が賃貸人に差し入れた敷金一一万円を、再契約締結に当たり被告が無断で流用したとして一一万円の不当利得返還請求を、<4>被告の傷害行為につき不法行為による損害賠償請求を求める事案である。
二 当事者の主張
(請求原因)
1 当事者
原告(昭和三六年一〇月二五日生)と被告(昭和一五年四月一〇日生)とは、同性愛者として、昭和六三年五月二九日から被告肩書住所地で共同生活をしていた。
2 三〇〇万円の不当利得返還請求
(一) 強迫取消し
(1) 被告は、原告に対し、平成五年一月ころ、原告が被告との共同生活を解消しようとしていることに因縁をつけ、原告及びその勤務先にまで電話をかけて一〇〇〇万円の支払を要求し、原告がこれに応じなければ、「実家にまでやくざを差し向ける。」などと強迫して、原告及びその親族の身体に危害を加えかねない気勢を示して畏怖させたため、原告は被告に対し、同年一月二四日、三〇〇万円の支払合意(以下「本件合意」という。)をした。
(2) 原告は、被告に対し、同年二月九日、右三〇〇万円を支払った。
(3) 原告は、被告に対し、訴状をもって強迫を理由に本件合意を取り消す旨の意思表示をし、右意思表示は平成八年五月一八日被告に到達した。
(二) 錯誤無効(動機の錯誤)
(1) 原告は、本件合意の際、被告が共同生活を解消させるものと信じていたが、被告には共同生活解消の意思がなかった。
(2) 原告は、被告に対し、本件合意に際して、被告との共同生活の解消を申し出ており、動機は表示された。
(三) 錯誤無効(支払義務の錯誤)
右三〇〇万円は社会通念上不相当な額であるから、原告は、三〇〇万円の支払義務がないにもかかわらず、あると信じていた。
3 六四万三八〇〇円の不当利得請求
(一) 被告は、原告名義の郵便貯金通帳及び届出印を無断で持ち出し、平成五年一月一九日、右通帳及び届出印を不正に使用し、原告の氏名を冒用して郵便貯金六四万三八〇〇円を払い戻した。
(二) その後、原告は、共同生活を再開したことによって、右無断払戻しにつき黙示の追認(以下「本件追認」という。)をしたが、共同生活の再開は被告の強要によるから、本件追認は強迫に基づくものである。
(三) 原告は、被告に対し、訴状をもって強迫を理由に本件追認を取り消す旨の意思表示をし、右意思表示は平成八年五月一八日被告に到達した。
4 一一万円の不当利得返還請求
(一) 被告は、四谷ビリジアン三〇七号室の賃貸借の再契約に当たり、当初の契約時に、原告が賃貸人に差し入れた敷金一一万円を、原告の承諾を得ずに敷金として流用した。
(二) 原告は、被告に対し、平成九年七月一八日の口頭弁論期日に右不当利得返還請求権を行使した。
5 不法行為による損害賠償請求
(一) 被告による傷害行為
平成六年一〇月一日、原告が被告との共同生活の別れ話を持ち出したところ、被告は、逆上して原告に対しいきなり文化包丁で切りつけ、原告は左示中指屈筋腱断裂及び左示中環指指神経切断の傷害を負った。
(二) 原告の後遺傷害
右暴行により、原告の中指は現在も曲がったままで真っ直ぐに伸びない状態であり、人差指も深指屈筋は半分切断されたままであり、かつ、四本の指はほとんど感覚のない状態であって、原告は日常生活や仕事上の不便を強いられている。
(三) 損害
(1) 入院費用 六万二〇八〇円
平成六年一〇月一日から同月一八日までの入院診療費
(2) 入院雑費 三二七〇円
(3) その他の入院雑費 二万三四〇〇円
一三〇〇円(一日当たり)×一八日(入院日数)
(4) 退院後の医療費 二万八八八〇円
二万一八〇円(三三回通院分)に、その後の医療費八七〇〇円(三回通院)を加えた金額
(5) 通院交通費 一万四五二〇円
退院時のタクシー代三〇〇〇円及び通院に要した地下鉄代一万一五二〇円(往復三二〇円×三六回)
(6) 逸失利益 三〇四万二六五七円
年収四三七万八〇五〇円(平成六年分)、労働能力喪失率九パーセントの数値を基に、事件発生後少なくとも一〇年間は逸失利益が見込まれることから、一〇年間に相当するライプニッツ係数七・七二二を乗じる(四三七万八〇五〇円×〇・〇九×七・七二二)。なお、原告の後遺障害の等級については、一手の人差指の末関節を屈伸することができなくなったものに該当するから、後遺障害別等級表第一三級に該当する。
(7) 慰謝料 二六七万円
<1> 入通院による慰謝料 一二八万円
入院日数一八日、通院期間約二年五か月(平成六年一〇月二〇日から平成九年三月一五日まで、通院実日数三六日)の入通院の慰謝料
<2> 後遺障害による慰謝料 一三九万円
後遺障害別等級表第一三級に該当することに対する慰謝料
(8) 弁護士費用 一一七万円
被告は本件傷害事件を起こしたにもかかわらず、原告に対し何ら誠実な対応を取ることがなかった。そのため、原告は本件訴訟を提起せざるを得なくなり、代理人に委任し、その着手金として三九万円及び報酬金として七八万円の合計一一七万円を支払う旨約した。
(9) 傷害による損害合計額 七〇一万四八〇七円
(請求原因に対する認否)
1 請求原因1は認める。
2 同2は、(一)(1) のうちの本件合意と(一)(2) は認めるが、その余は否認する。
3 同3は、(一)と(二)のうちの本件追認は認めるが、その余は否認する。
4 同4は、(一)の金額が一一万円であることは否認し、その余は認める。
5 同5は、(一)と(三)のうち平成六年一〇月一日から同月一八日までの入院は認めるが、その余は争う。
(抗弁)
1 黙示の追認(請求原因2、3に対し)
原告は、平成五年三月中旬以降平成六年一〇月一日までの被告と共同生活を継続したが、三〇〇万円及び六四万三八〇〇円について、一切返還請求をしなかったが、これは黙示の追認に当たる。
2 利得の消滅(請求原因2に対し)
仮に、三〇〇万円の支払につき原告に錯誤があっても、被告は善意の利得者であり、平成五年三月中旬以降平成六年一〇月一日までの共同生活において、三〇〇万円を生活費等に費消したので、利得は現存しない。
3 過失相殺(請求原因5に対し)
原告は、被告と同性愛者として生活していたにもかかわらず、平成六年春ころより被告以外の女性と浮気を始め、同年九月には一方的に被告との共同生活を解消したい旨申し出、さらに、引越先の住所をメモするとの約束に反しこれを記載しなかった。これらの原告の言動が被告の暴行を引き起こした原因であり、原告にも過失がある。
(抗弁に対する認否)
1 抗弁1は認める。
2 同2、3は否認する。
(再抗弁-強迫・抗弁1に対し)
1 共同生活の再開は被告からの強要によるものであり、黙示の追認は被告の強迫に基づくものである。
2 原告は、被告に対し、訴状をもって右追認を取り消す旨の意思表示をし、右は平成八年五月一八日被告に到達した。
(再抗弁に対する認否)
再抗弁1は否認する。
第三当裁判所の判断
一 三〇〇万円の不当利得返還請求について
原告(昭和三六年一〇月二五日生)と被告(昭和一五年四月一〇日生)とは、同性愛者として、昭和六三年五月二九日から被告肩書住所地にて共同生活をしていたが、平成五年一月二四日、原告は被告に対し、三〇〇万円を支払う旨の本件合意をし、同年二月九日、右三〇〇万円を支払ったことは当事者間に争いがない。
原告は本件合意が強迫(請求原因2(一)(1) )によるものであると主張し、それに沿う原告の供述及び陳述(甲一一)があるので検討するに、被告は、同性愛者として約五年共同生活をしていた原告が他の女性の下に走ったことから、平成五年一月二四日、原告との間で立会人の下話合いの場を設けた際、やくざを使うことができる旨の発言をしたが、その場に居た者は、同発言を被告が原告の仕打ちが情けなくて、興奮の余り、感情的になって言ったにすぎず、本気とは受け止めていなかったこと(乙一、二、五、証人近藤仁美)、原告は被告の発言に対し何ら警察に相談に行っていないこと(甲一一、原告)、原告は、三〇〇万円を支払う前に、弁護士及び区の法律相談に行き、同金員を支払う必要がないと言われていたのに、自ら慎重に判断した結果、手切れ金の趣旨でそれを支払ったこと(乙二、原告)、原告は、一旦他の女性の下に走ったが、同女との共同生活に疲れ、また被告の所に戻りたいといってきたため、被告は、同年三月末ころ、原告を迎えに行き、共同生活を再開し、それは一年六か月余り続いたが、その間に原告から三〇〇万円の支払について特段文句は出なかったこと(乙一、二、五、六の5、一四)などにかんがみれば、原告が、被告の発言により畏怖して本件合意をしたとは到底認められず、前記原告の供述及び陳述はにわかに措信し難く、他に本件合意が強迫によるものであることを認めるに足る証拠はない。
さらに、原告は本件合意が錯誤(請求原因2(二)(三))によるものであると主張し、それに沿う原告の供述及び陳述(甲一一)があるので検討するに、原告は、三〇〇万円を支払う前に弁護士及び区の法律相談に行き、同金員を支払う必要がないと言われていたのに、自ら慎重に判断した結果手切れ金の趣旨でそれを支払ったこと(乙二、原告)、原告は被告との共同生活を解消し、他の女性との共同生活を開始したこと(乙一、二、五)などにかんがみれば、原告に錯誤があり、それにより本件合意をしたとは到底認められず、前記原告の供述及び陳述はにわかに措信し難く、他に本件合意が錯誤によるものであることを認めるに足る証拠はない。
そうすると、原告の三〇〇万円の不当利得返還請求は理由がない。
二 六四万三八〇〇円の不当利得請求について
被告は、原告名義の郵便貯金通帳及び届出印を無断で持ち出し、平成五年一月一九日、右通帳及び届出印を不正に使用し、原告の氏名を冒用して郵便貯金六四万三八〇〇円を払い戻したが、その後、原告は、共同生活を再開したことによって、右無断払戻しにつき黙示の追認(本件追認)をしたことは当事者間に争いがない。
原告は、共同生活の再開は被告からの強要によるものであり、本件追認は強迫に基づくものであると主張し、それに沿う原告の供述及び陳述(甲一一)があるので検討するに、原告は、平成五年一月ころ、被告と別れ、他の女性と暮らしたものの、自らの意思で被告との共同生活の再開を望み、同年三月末、被告との共同生活を再開したが、その共同生活は一年六か月余り続き、この間、原告は六四万三八〇〇円の払戻しについて何ら文句を言わず、右金員は共同生活の資金として費消されたこと(乙一、二、五、六の5、一四)などにかんがみれば、右共同生活の再開は被告からの強要によるとは到底認められず、前記原告の供述及び陳述はにわかに措信し難く、他に本件追認が強迫に基づくものであることを認めるに足る証拠はない。
そうすると、原告の六四万三八〇〇円の不当利得請求は理由がない。
三 一一万円の不当利得返還請求について
被告は、四谷ビリジアン三〇七号室の賃貸借の再契約に当たり、当初の契約時に、原告が差し入れた敷金を原告の承諾を得ずに、敷金として流用したことは当事者間に争いがないところ、証拠(乙一二)及び弁論の全趣旨によれば、流用額は一〇万円であることが認められ、原告が被告に対し、平成九年七月一八日の口頭弁論期日に右不当利得返還請求権を行使したことは裁判所にとって顕著な事実であるから、被告は原告に対し、一〇万円の不当利得の返還義務及びこれに対する平成九年七月一九日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払義務を負うので、原告の請求は右の限度で理由がある。
四 不法行為による損害賠償請求について
1(一) 平成六年一〇月一日、原告が被告との共同生活の別れ話を持ち出したところ、被告は、逆上して原告に対しいきなり文化包丁で切りつけ、原告に左示中指屈筋腱断裂及び左示中環指指神経切断の傷害を負わせ、原告は同日から同月一八日まで入院したことは当事者間に争いがないので、被告は原告に対し不法行為による損害賠償義務を負う。
そして、証拠(甲四の1、八、一一、原告)によれば、原告は左第二指・第三指・第四指における指尖部での知覚異常(知覚過敏・知覚低下)、第三指における第二関節に軽度の可動障害(第一・第二関節を利用した屈曲運動の微調整障害)、握力の著明な低下、中指でのワープロのキータッチがうまくできないことが認められ、これは一手の中指の末関節を屈伸することができなくなったものに該当することから、後遺障害別等級表第一四級八号に該当し、また、同症状は平成七年四月一九日に固定したことが認められる。
(二) そこで、損害につき検討する、
(1) 入院費用は、証拠(甲五)により六万二〇八〇円と認められる。
(2) 入院雑費(丁字帯、包帯代、三角布代)は、証拠(甲六の1ないし3)及び弁論の全趣旨により、三二七〇円と認められる。
(3) その他の入院雑費は一日当たり一三〇〇円と認めるのが相当であるから、一八日分のそれは二万三四〇〇円となる。
(4) 退院後の医療費は、証拠(甲七の1ないし46、八)により、平成六年一〇月二〇日から症状固定時までの三三回で合計二万〇一八〇円と認められる。
(5) 通院交通費等は、証拠(甲八、一一)により、退院時のタクシー代三〇〇〇円と通院のための地下鉄代一万〇五六〇円(往復三二〇円×三三回)と認められる。
(6) 後遺症による逸失利益
証拠(甲四の1、一一、原告)及び弁論の全趣旨によれば、原告は株式会社日刊スポーツ印刷所に勤務し、ワープロ作業に従事していたが、前示後遺障害によりワープロのキータッチがうまくいかないという業務支障の発生が認められるので、一〇年間にわたり五パーセントの労働能力喪失を認めるのが相当であるところ、原告の平成六年の年収は四三七万八〇五〇円(甲一一)であるから、一〇年間に相当するライプニッツ係数七・七二一七を乗じる(四三七万八〇五〇円×〇・〇五×七・七二一七)と、その間の逸失利益は一六九万〇二九九円(円未満四捨五入。以下同じ)となる。
(7) 慰謝料
本件不法行為の態様、入通院日数、後遺障害の程度その他本件諸事情に照らせば、原告の精神的苦痛に対する二二〇万円と認めるのが相当である。
(三) 過失相殺
証拠(乙一、二、五、一五)及び弁論の全趣旨によれば、原告と被告は、同性愛者として約五年共同生活をしていたものの、平成五年一月ころ一度は原告の心変わりにより破局を迎えたが、同年三月末ころから共同生活を再開し、その後一年六か月余共同生活を続けていたところ、原告が、再び被告以外の女性に心を移し、朝帰りを繰り返し、事件当日引っ越し、引越先の住所をメモしておく約束であったのに約束に反し、しかも二回も原告に裏切られたと逆上した被告は、原告に対し、いきなり文化包丁で切りかかったことが認められ、右事実によれば、原告の右一連の言動が被告の傷害行為の引き金となったことが認められるので、損害額の算定に当たっては、原告の右一連の言動を考慮し、原告の損害の二割の過失相殺をするのが相当である。
そうすると、原告の損害のうち、被告において賠償すべき金額は、二割の過失相殺をし、三二一万〇二三一円となる。
(四) 弁護士費用
本件事案の難易、審理経過、本訴認容額等にかんがみ、本件事件と相当因果関係を有するものとして被告に請求し得べき弁護士費用の額は、三二万円とするのが相当である。
2 そうすると、被告は原告に対し、損害賠償金三二一万〇二三一円及びこれに対する不法行為後の平成六年一〇月二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払義務を負うので、原告の請求は右の限度で理由がある。
四 結論
以上の次第であって、原告の請求は、三三一万〇二三一円及び内金三二一万〇二三一円に対する不法行為後の平成六年一〇月二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金、内金一〇万円に対する履行請求後の平成九年七月一九日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 都築弘)